八重洲・日本橋・茅場町周辺再開発 x 江戸時代x北町奉行所x南町奉行所 x 与力・同心


八重洲・日本橋・茅場町周辺再開発エリアを歩くと常に江戸時代の跡地に出会うが、今回は北町・南町奉行所とそこに出入りする与力・同心について整理した。

江戸時代x北町奉行所南町奉行所

ブログ内「八重洲~日本橋・茅場町周辺再開発タイムスケジュール」では主に2021年から2027年、さらにはその先に竣工予定の再開発をリストアップしている。各再開発を整理していると、江戸時代の跡地と頻繁に出会う。
 
その中でも江戸市中の行政・司法・警察など、幅広い分野を担当していた北町奉行所と南町奉行所、さらに奉行所に詰め、町奉行の配下にいた与力・同心について添付HPなどにより整理した。江戸時代の多くの期間を通じて、奉行所は北町・南町のふたつが設置され月替わりで訴訟の受付を行った。
 
今回、あらためて、ブログ内「八重洲・日本橋・茅場町周辺再開発 x主要道路  x新川から隅田川へ」で取り上げたように八重洲・日本橋・茅場町周辺再開発が新川から隅田川方面とのつながりを確認できた。
 
江戸時代の八丁堀の地図
 
  • <北町奉行所>
北町奉行所は何度か移転しているが、文化3年(1806)から幕末まで呉服橋御門内にあった。ブログ内「八重洲・日本橋・茅場町周辺再開発x橋(2)地名として残る橋」で取り上げた現在の呉服橋交差点の南西、東京駅日本橋口周辺に当たる。

ブログ内「八重洲・日本橋・茅場町周辺再開発 x ラグジュアリーホテル」で取り上げたシャングリ・ラホテルが入る丸の内トラストシティ本館の東側歩道に、復元された石組みの溝と解説板が設置されている。

北町奉行として有名な人物として高橋英樹や松方弘樹が演じた「遠山の金さん」のモデル・遠山左衛門尉景元がいる。幕末の北町奉行で、天保の改革に反対して僅か3 年で罷免される。その際、町人の生活や娯楽を守ったため、「金さん」の芝居が盛んに上演され人気を博した。後に南町奉行に返り咲き7年務めた。

 

手前から丸の内トラストタワー本館とN館。この先に永代通りがあり渡ると建設中の常盤タワーが見える。

 
<南町奉行所>
 
南町奉行所も何度か移転しているが、江戸時代中頃からは有楽町駅付近に置かれていた。平成17年に同地で行われた発掘調査では下水口や井戸、土蔵、石組などが発見された。跡地は現在、有楽町イトシアという商業ビルになっている。
 
南町奉行として有名な人物として、時代劇『大岡越前』のモデルとして知られる大岡忠相(後に大名となった)、幕末に外交官としても活躍した小栗忠順がいる。
 
八重洲・日本橋・茅場町周辺再開発エリア外であるが、「ブログ内「八重洲・日本橋・茅場町周辺再開発x東京高速道路(kk線)廃止・緑地化構想x築地アメニティ整備構想」で取り上げた東京高速道路(kk線)が近く上部を走っている。
 
以下の西銀座デパート~銀座インズ1、2、3の上を走っている。
 
有楽町駅周辺マップ
 
有楽町イトシアと有楽町駅前広場
別の角度から駅舎方面
駅前広場内に設置されている
 
 
 
 

北町奉行所x南町奉行所x与力・同心

奉行所に詰め、他の役所にも、与力と同心がいたので、町奉行配下の場合、「町与力」と「町同心」と呼ばれていた。与力は、馬に乗る事の出来る分隊長で、同心はその部下であった。現在の警察でいうと、与力が警察署長クラスで、同心は刑事である。
 
町奉行の与力と同心は、代々同じ職場で働き、それに対して、責任者である町奉行は、多くの場合、2~3年程で交代してしまう。そのため実務は、経験が豊かな与力や同心の力に負うところが大きかった。
 
ブログ内「本の森ちゅうおう(仮称)とさらなる八丁堀駅周辺活性化」で「中央区本庁舎の移転・整備計画が持ち上がっており、同じ場所で建て替えるかどこかに移転するか議論されており、その移転先候補の1つが京華スクウェアの敷地だ。」と書いたが。京華スクウェア前に「八丁堀の与力・同心組屋敷跡」がある。
 
与力・同心が住んでいたのはブログ内「八重洲・日本橋・茅場町周辺再開発x橋(2)地名として残る橋」でも取り上げた楓川、桜川(八丁堀)、亀島川、日本橋川に囲まれた場所だ。
 
 
京華スクウェア

以下が文面。

八丁堀の与力・同心組屋敷跡
所在地 中央区八丁堀一~二丁目、日本橋茅場町一~三丁目の一帯

江戸初期に埋め立てられた八丁堀の地は、はじめは寺町でした。寛永十二年(一六三五)に江戸城下の拡張計画が行われ、玉円寺だけを残して多くの寺は郊外に移転し、そこに与力・同心組屋敷の町が成立しました。その範囲は茅場町から八丁堀の一帯に集中しています。

八丁堀といえば捕物帳で有名な「八丁堀の旦那」と呼ばれた、江戸町奉行配下の与力・同心の町でした。与力は徳川家の直臣で、同心はその配下の侍衆です。着流しに羽織姿で懐手、帯に差した十手の朱房もいきな庶民の味方として人々の信頼を得ていました。

初期には江戸町奉行板倉勝重の配下として与力一〇人、同心五〇人から始まってのち、南北両町奉行が成立すると与力五〇人、同心二八〇人と増加し、両町奉行所に分かれて勤務していました。与力は知行二〇〇石、屋敷は三〇〇~五〇〇坪、同心は三〇俵二人扶持で、一〇〇坪ほどの屋敷地でした。

これらの与力・同心たちが江戸の治安に活躍したのですが、生活費を得るため町民に屋敷地を貸す者も多く、与力で歌人の加藤枝直・千蔭父子や医者で歌人の井上文雄などの文化人や学者を輩出した町としても知られています。
平成十三年三月
中央区教育委員会