八重洲・日本橋・茅場町周辺再開発を整理していると、今でも川に架かる一部の橋と、川が既に埋め立てられ地名として残る多数の橋に遭遇し、自然とそれらの歴史に思いをはせることになる。
八重洲・日本橋・茅場町周辺再開発x川に架からない橋
ブログ内「八重洲~日本橋・茅場町周辺再開発タイムスケジュール」では主に2021年から2027年、さらにはその先に竣工予定の再開発をリストアップしている。各再開発を整理していると多くの橋に遭遇する。その中には現在でも実際に川に架かる橋と、既に川は埋め立てられ地名のみ残る橋がある。
#前者はブログ内「八重洲・日本橋・茅場町周辺再開発x橋(1)川に架かる橋」
#前者はブログ内「八重洲・日本橋・茅場町周辺再開発x橋(1)川に架かる橋」
後者について古地図などを見ながら整理してみると、該当地域には既に埋め立てられ、外濠川、楓川、京橋川+桜川とかつて架かっていた橋が浮かびあがってきた。
ブログ内「八重洲・日本橋・茅場町周辺再開発x江戸時代x北町奉行所x南町奉行所x与力・同心」で取り上げた「八丁堀の与力・同心組屋敷跡地」は楓川、桜川(八丁堀)、亀島川、日本橋川に囲まれていた。

外濠川
ブログ内「八重洲・日本橋・茅場町周辺再開発 x 主要道路 x 新川から隅田川へ」で取り上げた3大主要道路である八重洲通り、永代通り、鍜治橋通りのところにそれぞれ、八重洲橋、呉服橋、鍜治橋が架かっていた。
現在の鍛冶橋交差点とJR線の間には江戸城の外濠があり、鍛冶橋が架けられ、同橋の先に江戸城の外郭門の一つ鍛冶橋御門があった。「鍛冶」という名前の由来は、橋の東側にあった南鍛冶町(現在の八重洲2丁目あたり)に由来していると考えられている。
ブログ内「八重洲二丁目中区再開発 三井不動産」と「八重洲二丁目南地区再開発」
は鍜治橋を挟んで計画されている。

- 八重洲橋
明治17年(1884年)に初代が架かり、昭和22年(1948年)に外濠川が埋め立てられたのに伴い撤去された。八重洲口から八重洲通りと外堀通りの交差点を撮影。
- 呉服橋
ブログ内「TOKYO TORCH 常盤橋タワー 三菱地所」で取り上げた常盤タワーの永代通りを挟んだ対面にある鉄鋼ビルのところに呉服橋は架かっていた。
呉服橋という名前は、この橋の袂に幕府呉服御用の屋敷があったことに由来する。その名前は昭和初期に地名となり、昭和22年からは日本橋呉服橋と改称、そして昭和29年に八重洲となり、その名前は地名からも消えた。



京橋川+桜川
外堀通り上の首都高西銀座ジャンクションから京橋ジャンクションあたりまでを京橋川が流れ、京橋ジャンクションあたりで、ブログ内「八重洲・日本橋・茅場町周辺再開発x橋(1)川に架かる橋」で取り上げた亀島川に流入する桜川に合流していた。
- 比丘尼橋
外濠のあった外堀通り。首都高の下が京橋川の始まりであった。写真右側の少し先に比丘尼橋は架かっていた。
- 組屋橋

- 京橋



- 三年橋(住谷橋)

歌川広重の「京橋竹がし」(名所江戸百景)

- 新京橋
昭和通りが走っている。

- 白魚橋(牛草橋)
- 新桜橋

- 桜橋
ブログ内「本の森ちゅうおう(仮称)とさらなる八丁堀駅周辺活性化」の裏側と
桜川第一ポンプ場の間にあった。
- 中之橋

八丁堀橋

稲荷橋

京橋ジャンクションのあたりで京橋川・桜川と交差していた。
- 禅正橋
ブログ内「八重洲・日本橋・茅場町周辺再開発 x 主要道路 x 新川から隅田川へ」などで取り上げた鍜治橋通りにあり現在の橋は関東大震災の復興事業により架け替えられた。東側に島田弾正忠利の屋敷があった。弾正橋公園に名を残している。

- 松幡橋

- 宝橋
明治初期の架橋とされる。宝橋公園に名を残す。
- 久安橋
江戸時代に桑名藩松平越中守の上屋敷前に架けられた。現在の橋は関東大震災の復興事業により、ブログ内「八重洲・日本橋・茅場町周辺再開発 x 主要道路 x 新川から隅田川へ」などで取り上げた八重洲通りの造成と共に架け替えられた。久安橋公園などに名を残す。
- 新場橋
- 千代田橋
1923年関東大震災復興事業の一環として架橋。西側「呉服橋(外濠川)」を経て千代田(皇居)に通じることに由来。ブログ内「八重洲・日本橋・茅場町周辺再開発 x 主要道路 x 新川から隅田川へ」などで取り上げた永代通りが走る。
- 海運橋
以下の写真はブログ内「Kabuto One 茅場町駅直結 平和不動産」で取り上げた第一国立銀行と海運橋。


- 兜橋
以下、楓川が日本橋川に流入する付近右側にはブログ内「Kabuto One 茅場町駅直結 平和不動産」で取り上げた東京証券取引所、日証館、兜神社がある。兜橋は兜神社の前あたりにあった。



