赤穂浪士の墓所で有名な泉岳寺抜きにはこのエリアは語れない。高輪居住時、その前を通り泉岳寺駅から通勤していた。エリア全体の地図はこちら(PCのみ)。
泉岳寺
添付HPによると、曹洞宗の寺院で、慶長17年(1612年)、徳川家康が外桜田に創立し、寛永18年(1641年)の大火によって伽藍が焼失、三代将軍家光(1604年~1651年)の命により現在の高輪の地に移転再建された(一説に移転は正保年間〈1644年~1648年〉とも)。
泉岳寺と赤穂浪士
赤穂藩主浅野家の菩提寺であったことから、赤穂四十七義士の墓所としても知られ、1702年の吉良邸討入り約50年後より上演された歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」の興行が盛んになるに伴って一層多くの参詣者が訪れるようになった。有名な筆頭家老大石内蔵助の銅像も佇む。大石内蔵助外十六人忠烈の跡は二本榎通り沿いの都営高輪アパート内にある。
三田には、大石内蔵助の息子大石主税が討ち入り後預けられたのが松平定直(久松松平家・伊予松山藩)屋敷で現イタリア大使館(三田2丁目)がある(「三田 綱の手引坂・日向坂(4)イタリア大使館、オーストラリア大使館、三田共用会議所」)で書いた。
築地には、聖路加国際大学入り口の左側脇に浅野内匠頭邸跡(浅野家江戸上屋敷地)があり、討ち入り後泉岳寺に向かう道中、築地本願寺(「築地 東京中央卸売市場跡地再開発(3)築地本願寺」 )の塀に沿って南へ進んでいる。切腹した浪士の中で間新六だけは本願寺に埋葬されており、泉岳寺にある墓は新六の供養塔である。
両国には、吉良上野介屋敷跡(本所松坂町公園)、赤穂浪士が休息を申し込んだが、故あって断ったとされる回向院がある。先日、参拝に行った(「回向院と猫塚」)。
忠臣蔵と購入したマンション
「三田 綱の手引坂・日向坂(7)マンション資産価値に対する中長期プロジェクトの効用」で取り上げたのが、1)築地、2)高輪、3)三田、4)両国で、全くの偶然で上記にある忠臣蔵ゆかりの場所に縁があるのは間違いない。
忠臣蔵と浮世絵
4月10日(日)、「ボストン美術館所蔵 俺たちの国芳 わたしの国貞」を鑑賞した以来、浮世絵への興味は尽きることなく、まず「浮世絵 基礎の基礎早見表」作ってみた(仮名手本忠臣蔵関連の浮世絵も掲載)。
以下は最初の吉良邸の『忠臣蔵十一段目 夜討ちの図』(歌川国芳)以外は、忠臣蔵を題材にしているわけではない関連場所に焦点をあて、吉良邸から泉岳寺のある高輪まで時間軸に沿って整理した。回向院は休息を断られ、両国橋は渡ろうとしたが拒否され永代橋を渡った。金杉橋は通り道。三田は大石内蔵助の息子大石主税が預けられた。最後の高田馬場は忠臣蔵関連ではなく四十七士の1人堀部安兵衛の決闘で有名。全ての浮世絵は、5月3日に行った「原安三郎コレクション広重 ビビッド」で鑑賞できた(広重の作品は全て「名所江戸百景」より)。
以下、(1))~(10)リスト
- 高輪 山手線新駅・品川駅再開発(1)概要とJR東日本
- 高輪 山手線新駅・品川駅再開発(2)主要当事者整理
- 高輪 山手線新駅・品川駅再開発(3)京急
- 高輪 山手線新駅・品川駅再開発(4)西武ホールディングス
- 高輪 山手線新駅・品川駅再開発(5)交通インフラ
- 高輪 山手線新駅・品川駅再開発(6)泉岳寺と赤穂浪士
- 高輪 山手線新駅・品川駅再開発(7)二本榎通りと伊皿子坂・魚籃坂・桂坂・柘榴坂
- 高輪 山手線新駅・品川駅再開発(8)田町駅東口北地区地区計画
- 高輪 山手線新駅・品川駅再開発(9)ユニークな道
- 高輪 山手線新駅・品川駅再開発(10)周辺マンション